じゅりーの迷える日々

解離性障害とともに生きているアラサーの雑記

太宰治『人間失格』で、私の“道化”人生を回顧する

お題「好きな作家」

日本文学史に残る名作『人間失格』を読んだのは、たしか高校2年生の頃です。

何度か書いているとおり幼少期~成人するくらいまでの記憶があまりないのですが、これについては非常に衝撃的だったので鮮明に覚えています。

 

高校2年生の秋だったと思います。

休み時間に1人で廊下を歩いていた時、同じクラスの女の子から声をかけられました。貶しているわけではないですが地味なタイプの子で、たまに話す程度の関係性。かたや私は下記の記事にも書いたとおり明朗で親しみやすい(演技をしていた)優秀な道化でしたので、クラスどころか学校の人気者でした。

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ねぇ、と声をかけられ、振り向いた私に彼女がかけた第一声が「人間失格、読んだ?」でした。その頃、出版社がよくやる夏の読書推進キャンペーンの一環で、「DEATH NOTE」の小畑健さんが文庫本の表紙イラストを描いたものが売られていました。非常に好評だったようで、どこの書店でも見かけた気がします。

その時はもちろん名前は知っていたものの、実際に読んだことは無かったので、「まだだけど、面白いの?」と尋ねました。

その問いに対する彼女の返答を、私は死ぬまで忘れないでしょう。

 

「読んだほうがいいよ。あなたの話だから」

 

言葉の意味はよく分かりませんでしたが、その日のうちに書店に寄って、『人間失格』を購入して読み始めました。

 

冒頭から、彼女の言うとおり「私の話」でした。

他人の前ではおどけるばかりで、本当の自分を誰にもさらけ出す事ができない。他人だけでなく自分すらも欺く、虚しく惨めな葉蔵の人生が自分と重なりました。そして、私を観察する人には、自分が「道化」であることがバレているのだと知って絶望しました。

第2章には、葉蔵が自身の「道化」技術を見抜かれそうになるという場面があります。彼はその衝撃の反動で酒や煙草、娼婦等に溺れますが、私は「道化」技術を磨くほうを選びました。理由は単純で、嗜好品や異性に溺れられるほどの精神的余裕も度胸もなかったからです。 そして、大学を卒業する頃には他人に見抜かれることもないほどの立派な道化になっていました。

 

ただ今となっては、その代償として、一個人としての尊厳と、「本当の自分」を失ったのを感じています。何かを考えるとき、「一番周囲の人が”私らしい”と思うもの」しか選べなくなりました。事象に対し何か考えが浮かんでも、それが道化としての自分が考えたことなのか、真に自分が考えたことなのかの区別がつきません。自我を完璧に見失ったのです。

今では解離性障害患者として、複数ある思考のうちから、どれが本当の自分なのかを見つめなおす作業をしています。ただ、「本当の自分」とやらが見つかるのかは分かりませんし、発見できる自信もありません。そもそも、「本当の自分」はまだ私の中にいるのでしょうか?

そう考えると、葉蔵のように「人間失格」する日も、そう遠くないのかもしれないと感じています。